院長コラム
Column
治療のリスクを理解する
2018年01月29日
いままでの経験でも治療のトラブルについてはいくつかありましたので、そのリスクについて少し考えてみました。医療サイドの視点からみた少し偏った感想ですし、話の性質上少し重く暗い話になることはご容赦です。
患者さんはリスクのない治療を望まれます。もちろん安全でリスクの少ない治療を望まれることはあたり前のことなので、それに沿えるように細心の注意を払うことは当然のことです。
治療内容を説明する時に「もちろん治療のリスクはゼロですよね?」と言われ、少し困ってしまうこともあります。予期できない合併症や副作用がない治療はありませんのでそのリスクをゼロにするということは不可能です。
医療行為にはかならずリスクがあるのだと医療に携わっている人は考えます。治療には必ずリスクとベネフィットがあり、それを天秤にかけて判断します。ベネフィットがリスクにまさる場合に治療を実施することになります。
しかし、そうあるべきでないと考える人もおられます。特に司法に携わる方はそう考えられるのかもしれません。
リスクを受け入れることができなければ、医療行為はかなり制限されます。
救急の現場やリスクの高い治療を行った時もこのジレンマを感じました。現在も継続している重症の不整脈へのカテーテル治療についても同じです。
例えば循環器領域では、ご高齢の患者さんが心筋梗塞などの重篤な病気をおこしたときにどこまで積極的に治療するのかは現場の医師はよく選択に迷います。治療の選択によっては患者さんの生死を左右します。
心臓の血管に血の塊(血栓)が詰まってしまう場合、できるだけ早く詰まった血管を再開通させる必要があります。ご高齢の方は、虚血に対する予備能力が低いので、血管がつまったままにしておくと、かなりの高率で引き続いて心不全や重症な不整脈を起こしてきます。
積極的にカテーテルを使用して治療を行った場合、うまくいけば病状は劇的に改善します。しかし、治療が奏功しないこともありますし、予期せぬ出血などの合併症を起こしてしまうことも多々あります。最悪の場合には治療中に命を落としてしまう可能性もあります。まさにハイリスクハイリターンなのです。
ガイドライン上ではリスクの高い治療はいくら有効であってもあまりおすすめできないとされています。
患者さんや家族の方や納得して行った治療であったとしても結果が悪ければ責任問題が発生します。それは正式な承諾書をいただいていた場合でも同じです。一方、適切に診断や治療ができていないという案件でも責任が問われます。正式に補償を明らかにするためには裁判が必要になります。
患者さんのことを思って精一杯努力した治療行為であっても結果がわるければ訴訟になる可能性があるであれば、初めからリスクの高い治療を全く行わないという判断もでてきます。そのようにいってハイリスクの治療をやめてしまう先生もおられます。
患者さんとの良好な関係があればいくら結果が悪くとも訴訟にはならないのだという評論家の方の意見をよく聞きます。確かに一理あるのでしょうが、個人的には必ずしもそうではないと感じています。多くの場合、治療結果やその補償に納得できないのは本人ではなく家族や親戚の方だからです。1周忌などの法事の時の親戚の集まりの場所から訴訟に発展することもあるのです。
少し前に福島県の産婦人科の先生が、診察中に警察に逮捕されたという事件がマスコミにおとりあげられました。出産時のトラブルによる妊婦さんの死亡が原因です。お産は昔から多くのリスクを含んでいます。この事件は医療分野以外の方ではあまり関心がないのかもしれませんが、この10年間で医師の中では最も旋風を巻き起こしました事件だったと思います。
治療は標準的な医療行為の中で起きました。詳細は伺いしれませんが完璧な治療ということはありえないので、処置中にはいくつかのミスはあったのかもしれません。
もちろんその時には別の対応をしていれば救命されたはずと思われ、悲しみにくれる家族の方の心中を察します。産科や小児科でのトラブルは特にご家族の方のショックが大きく、このような悲しいことが起きたことに対して誰かが罰せられるべきであると主張される意見が多いのだとか。
結果が悪い場合、家族の方が望めば刑事事件にまで発展してしまうのです。お金のことを扱う民事の事件であっても少しでも請求する額を多くする戦略として刑事事件も同時に告訴するという案件もあります。
当時者の先生は拘束され、同じ立場で職をつづけることができなくなりました。そしてその結果、治療リスクを理由に産科を志願される医師も少なくなりました。
最終的に当事者の先生は無罪となりましたが、その後無理をする治療は制限されるようになりました。そして救急現場の医師が、精神的・肉体的に疲弊し、現場を立ち去り、「医療崩壊」という言葉も取り上げられました。
私自身も訴訟に巻き込まれた経験はあり、警察から何度も呼び出されて聴取をうけました。となりの聴取室から「俺は覚せい剤はやってない」という怒鳴り声が聞こえてきたことも思い出します。〇暴と同じ部署が担当しているとのことでした。
覚えていないといったところ、悪いことをしたことは必ず覚えているものだと20代の若い警察官の方に諭されやりきれなったことも思い返されます。何度も言われると自分が悪いことをやったのだと思ってしまう心理も少しわかります。
弁護士さん曰く、医療訴訟は避けられない事故とのことです。そして裁判の時に特に印象に残っていることは、「なぜリスクがあるとわかっているのに治療を行ったのですか?」という違和感のある言葉でした。
アメリカは日本より多くの弁護士がおられる訴訟社会です。救急車で運ばれる方は命を落とすリスクが高く結果がわるければ多大な損失が発生します。医療を専門にする弁護士さんは、救急車の後を追いかけて家族の方に裁判の話を持ち掛けるのだそうです。
産科やリスクの高い手術に従事されている医師の場合、年収の半分は訴訟のための保険費用になるということも聞きます。
医療の費用を負担する保険会社が患者さんの治療する病院やクリニックを指定し、それ以外の病院では治療を受けることができません。救急車で運ばれてきても別の病院に転送する場合もあるのだとか。
実際の医療以外のリスク管理にかかる費用も膨大です。そしてリスクを少なくするにはどんどん人員も増やす必要もでてきます。病床あたりの人員は日本の何倍にものぼります。つまり、リスクと費用というのは表裏一体であり、目の前のリスクについて補償をして安全を確保するためには多大な費用がかかり、最終的には税金を払っている国民にブーメランのように返ってきます。
アメリカではそのために医療費がどんどん吊り上がり、月の医療保険料も10万円以上です。多くの国民が医療保険に入れず適切な医療が受けられなくなってしまったというジレンマもおきています。
病気になって自己破産する方も増えています。自己破産の原因の6割は医療費が原因なのだとか。ここまで高額の構造ができあがってしまうといわゆるオバマケアーもうまく機能しなさそうです。
医療のリスクをどのように考え、どのレベルまで受け入れて補償を求めるのかということは、司法の判断のみならず国民が考える必要のあるとても大きな社会問題なのかもしれません。
医療の分野以外でも事故のリスクを受け入れられないということであれば公園や遊技場などの施設も廃止する必要があるでしょうし、多くの公共のサービスも機能不全となるかもしれません。
そしてその行き過ぎた考え方は「海でおぼれるリスクが高いので、お金がいくらかかっても構わないので海を干上がらせましょう」という論理にもつながるようにも思います。
もちろん結果に対しての責任をある程度は補償するというのはあたりまえのことですし、悪い結果が起きないように常に改善をしていくことは大切です。しかし、医療行為は常にリスクを含んでいることも併せ持って理解を示すこともみんなが得をする良質な医療を長期的に受け続けるためには必要のように感じます。